基礎論Vol.1:そもそも「数学基礎論」とはなにか?
こんにちは、ルシアンと申します。唐突に始めたブログですが、まず1つ記事を書いてみたいと思います。
テーマは、「そもそも『数学基礎論』とはなにか?」です。
※以下の内容は、「そう考えると数学基礎論って必要だね」と思える一つの見方を書いたものです。個人の一意見として捉えてください。
数学における「文化」や「言語」の問題
中高の数学を勉強していて、「単元ごとに基礎になっている価値観がちがう?」みたいに思ったことはないでしょうか?
たとえば、「三平方の定理」とか「円や特別な三角形の性質」を勉強する時は、点と円と直線くらいしかでてきませんが、「円や直線の方程式」の時にはつねにxy座標が指定されていたりします。
かと思えば、違う章では「直線の方程式」は1次関数とよばれたりしているわけです。
このように価値観や呼び方が入り混じっているのは、違う時代・背景のもとで生まれた数学が入り混じっているからです。
なので、自分は高校の教科書を見ると「色々な民族が同じ敷地に閉じ込められている」というような印象を持ちます。
そして、発展問題などで、関数の問題の解法で突然図形の性質が出てきたりすると「そんなのありなの?」という気分になります。
この現象をまとめると次のようになります。
- 一言で数学と言っても、時代・背景によって様々な価値観・文化がある
- しかし「問題を解く」という価値観は共通しており、その解法が突然他の文化圏から飛んできたりする
ある文化圏の人々が頭を抱えていた問題を、別の文化圏の人々が異文化のルールで解けたと言っていても、素直に認めたくないですよね。
なので、「異文化間の言葉やルールを『翻訳する』確かな方法」が必要になります。
それを与えているのが「数学基礎論」なのです。
記号論理学:すべての数学に共通する基礎づけを!
では、どのような方法で『翻訳』するのが適当でしょうか?
これに対して数学者たちが出した答えが
「『言葉』と『ルール』をつかさどる、最も抽象的な数学*1をつくる」
ということでした。これを「記号論理学」といいます。
この記号論理学というのは本当にすごくて、数学で取り扱うモノ・概念・推論などをすべて「記号の列」に翻訳することができます。
例えば「AかつB」とか「AならばB」などの推論も、全て記号の列になってしまいます。
基本的な概念を記号列に翻訳したら、今度は「記号列の基本ルール」を定めます。そして、証明の正しさというのは全て「記号の並びがルールから外れていないか」の確認に帰着されるのです。
(この「記号列の基本ルール」というのもかなり単純で、記号列の長さを度外視すれば、証明の正しさをコンピュータに確かめさせることも容易だと思います。)
これによって、記号論理学は数学の「標準語」の役割を担うことになります。
実際、ある文化の問題や証明を翻訳する時は、
ある数学文化での言葉遣い→[記号論理学]→記号列→[記号論理学]→別の数学文化での言葉遣い
という風に翻訳できるわけです。
そして、例えばまっさらな平面上の図形の問題を、座標を導入して解いたとしても、記号論理学的に正しければOKということになります。
記号論理学とどう向き合うべきか?
記号論理学のおかげで、数学には「標準語」というべきものが与えられました。
そうすると、「普段から標準語で話せば便利じゃない?」と思うかもしれません。しかし、普段扱う数学を記号列にすると恐ろしく長い上に、数学の背景や直観的見方が失われてしまいます。
なので、一つ一つの概念をいちいち翻訳することはあまり有益でないと思われます。
では、記号論理学とどのように向き合えばよいでしょうか?ここではその一例を挙げます。
1.数学の限界を知る
例えば、高校では集合を「定義が具体的に示されているモノの集まり」などと定めますが、「モノって、本当になんでもいいの?」となりますよね。
記号論理学をかじれば、こういう疑問にも答えが出せます。
たとえば、「Aくん」を集合の元として扱うとき、「『Aくん』とよばれるただの文字」として扱うのは記号論理学では非常に容易です。
ただし、この場合は「Aくん」自身の性質は全く反映されず、「Aくん」と呼ぶことと「x」と呼ぶことには何の差も生まれません。
一方、例えば「人間としての『Aくん』」を数学で扱うためには、まず「人間」を記号列にしなければなりません。
この様にして考えると、何が数学的な「モノ」として扱えるかが鮮明に見えてくるのではないでしょうか?
2.問題を翻訳する
例えば、
「『まっさらな平面上の図形の問題*2』を『座標を導入』して解く」
ということをしたいとき、厳密には
「座標を導入するかしないかで結論は変わらない」
ということを保証しなければなりません。
これはどのようにすれば解決できるか?というのは、今後の具体的な議題にしてもよいですね。
おわりに
今回は「記号論理学」の話が中心的なテーマとなりましたが、次回以降は議論の根拠として引用するのみになると思います。
自分で詳しく学びたいという方は、以下の文献を開いてみて下さい。
次回は、「なぜ『公理的集合論』は必要か?」というテーマで書くつもりです。
今回の感想や意見、今後の記事の要望などがあれば、こちらの記事にコメントか、質問箱(https://peing.net/lucien0308)にてお知らせください♪